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とっておきの東北(20) 花と湿原 葛根田川源頭の百花繚乱と八瀬森山荘 |
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こんな湿原がまだ残っていたのか。思い出すだびに笑みがこぼれてくる。葛根田川源頭に点在する山上湿原を巡る山旅はそんな幸せな気分をもたらしてくれた。 二年越しの秋田・岩手県境尾根の縦走になった。昨年(1999年）8月に秋田県の乳頭温泉から大白森までを歩いた。今年はどうしてもその先を歩いて裏岩手縦走路に出なければいけない。 今年（2000年）は７月中旬に反対側の岩手県の松川温泉から大深岳を目指して裏岩手縦走路に乗り、大深岳の先から西へ分岐した県境尾根を大白森、乳頭温泉方面へとたどることにした。 このコースはオオシラビソの樹林帯と手つかずのみずみずしい高層湿原が交互に現われてくる。その湿原の素晴らしさといったらない。さらに運よく花の最盛期にぶつかった。高層湿原に百花繚乱という、僥倖としかいいようのない機会にめぐりあった。木道が敷かれていないふわふわとした湿原の中の小道を「申し訳ない」という思いを抱きながら歩く幸せー東北の山をまめに歩いているが、これだけの幸運にはめったに出会えない。 その幸運をつかむためには、歩く人がきわめて少ないだけに、道標がまったく見当たらない、踏み跡のうすい小道を、背丈ほどもあるヤブと格闘しながら歩く覚悟がいる。この多くの湿原に出会えたことがこの夏の最大の収穫だろう。 ぼくはこれまで湿原にはいつも失望させられてきた。おおかたが乾燥気味で湿原のみずみずしさが感じられないからだ。地形図でコース上に湿原があることが分かっていても期待することがなくなっていた。 仙台に赴任して"湿原"を初めて意識して歩いたのが北上山地の「櫃取湿原」だった。多くの沢が入りこんでいる湿原にミズバショウがどこまでも視野いっぱいに広がっていた。これには驚いた。この湿原がぼくにとってもベストワンになった。これを上回る湿原があっても、もう出会うことがないのではないかと考えていた。ところがである…。 大深山荘近くの傾斜湿原の素晴らしさといったらない 松川温泉から大深岳への登山口は、宿泊した松川温泉・松楓荘から樹海ラインを少しのぼった陵雲荘の近くにある。空模様はくもり。大深山荘分岐に着く。右に道を取って大深山荘に行くか、それとも道なりに源太ケ岳経由で大深岳に行くか。道の具合からすれば多くの人は真っ直ぐの道を取るようだが、ためらうことなく右の大深への細い道に入る。この道沿いには湿原があり、とくに大深山荘近くの水場周辺の湿原は一見の価値があると聞いていたからだ。 すぐにササが背丈を超え、覆いかぶさるほどのヤブ道になる。ササに濡れてびっしょりになる前にあわてて雨具の上下をつける。ぽつぽつ雨も落ちてきた。ササと灌木の道の両側にはずっとモミジカラマツが咲いている。驚いたことにすっかり咲き終わっているはずのシラネアオイやマイズルソウも咲いている。 源太ケ岳をトラバース気味に歩くと傾斜湿原が現れた。お花畑だ。上部にはまだ雪が残り、真っ白なコバイケイソウと黄色のシナノキンバイの群落が目に飛び込んできた。白と黄色との対比が鮮やかだ。さらに下部の湿原には黄色のニッコウキスゲの群落が広がっている。 近づくほどに規模が大きいことが分かる。ここが大深山荘近くの湿原であった。花の最盛期だ。足元を見ると、カラマツソウ、チングルマ、イワイチョウ、イワカガミ、ハクサンチドリ、ヨツバシオガマ、ヒナザクラ、ウサギギク、ワタスゲ、ツガザクラがびっしりと湿原を埋め尽くしている。この花園に満足しないわけがない。通りすぎるのが惜しまれる。同行の家人が何度も歓声をあげている。 水場の案内があり、冷たい水が大量に湧きだしていて、疲れた体にしみわたるすばらしい水だった。湿原は花が咲いていればこその湿原だ、そう思わせるだけの百花繚乱の花園が続く 水場からはさらに池塘の点在する傾斜湿原が下に続き、その眺めはいつまでもあきさせない。好みはあると思うが、湿原は花が咲いていればこその湿原だ、とつくづく思う。そう思わせるだけの花園が広がっていた。 雨の中を大深山荘に到着。新しくはないが、とてもきれいに使われている感じのよい山小屋だ。そろそろ買い替えどきの雨具には雨がしみこみ、靴の中までぐっしょり濡れている。この先どうするか考える。この雨の中を予定通り八瀬森まで行くかどうか、気力が衰えていることを自覚する。それがちょっぴりくやしくもある。そのうえ不安もある。決断ができないまま小屋を出る。とにかく大深岳の頂上を目指す。アカモノを目の隅で追いながら、これからどうするか考えながら歩く。 「ここで県境尾根を歩くのをやめるともう歩く機会がなくなるかもしれない、せっかくの機会なのだから気力を奮って歩こう」と思うようになっきた。雨が小降りになってきたのもこの決断を促したようだ。 大深岳に着いた。南にゆるやかに下っていくとすぐ右に細い道が分岐している。左に道標があるが横に倒れていた。その内側を見ると「乳頭温泉方面」と書いてある。この道に間違いはないが、すっかりササで覆われ、踏まれていない感じがする。一歩踏み出すのがためらわれるほどだ。 いよいよ本番。勇気を奮ってヤブに突入だ。登山道は初っ端から背丈くらいのササを押しのけて進む。ぼくの払いのけるササが反動で後ろについてくる家人の顔をバッシ、バッシと直撃する。下を見ると細い小さな道が続いている。この道を踏み外さないよう細心の注意を払う。このヤブ道がずっと続くのかと思うと不安になる。ある程度まで進むともう戻れないとあきらめるほどのササヤブで、覚悟を決めるしかない。踏み跡が不鮮明なところに思いがげなく赤いテープを見つける。ヤブ道を限りなく進めむのかと思っていたらササヤブが途切れた。 やっとのことでオオシラビソの原生林のなかを行くようになった。緊張も少しはとけた。樹林帯のなかはギンリョウソウ、ゴゼンタチバナ、マイズルソウが咲き、ショウジョウバカマ、エンレイソウ、ツクバネソウ、ツバメオモト、サンカヨウなどは咲き終わったあとの花がらや実だった。 このコースは細い一本の道が続き、樹林帯と湿原が交互に現われる。いかにも山深い感じのオオシラビソの森を抜けると湿原が現れ、また森の中に入り、また広い湿原に出る。そのたびに百花繚乱の湿原に歓声を上げ、その美しさに息をのむ。この繰り返しで、いつ湿原が現われるか楽しみながら歩くことになる。コバイケイソウやニッコウキスゲが道端に見えてきたら湿原が近いことのシグナルだ。 最初の湿原の出現は感激だった。ぼくと家人の歓声が同時にあがる。分岐から八瀬森山荘までの間に５つの大きな広い湿原があった。山上湿原はオオシラビソと灌木に囲まれ、ガスがゆるやかに流れて幻想的な光景が広がる。いずれも花の盛りである。先ほどの大深山荘の湿原とおなじくらい多くの種類の花が咲き乱れ、さらにミツカシワ、モウセンゴケ、トキソウ、ウラジロヨウラク、シャクナゲが加わった。 これらの湿原には木道が敷かれていない。登山者が歩いた一筋の道が湿原の中についているだけだ。湿原といえばどこも保護のため木道が敷かれているが、生まれたままの湿原だ。それだけ訪れる人が少ないのだろう。この湿原がいつまでこの状態を維持できるのか。多くの登山靴で踏みつけられ、木道が敷かれるのも時間の問題だろう。 原始の森に５つの山上湿原が交互に出現 ４つ目の湿原を抜ける。人の気配のまったくない原生林の中の歩きが続く。山上湿原はオオシラビソに囲まれ、ガスがゆるやかに流れて幻想的な光景がひろがる。 初めて道標があった。折り曲がっている。なにが書いてあるのか分からない。よく見ると「関東森」と読めた。ここがそうなのか、この山奥でなぜ"関東"なのだろうという思いが頭をかすめた。いくら歩いてもなにひとつ標識がでてこないので、はたして八瀬森山荘にたどりつくのか不安になっていた。この標識を見て、歩いている道に間違いがないことが分った。 ５つ目の大きな湿原に出る。ここも湿原一面にニッコウキスゲが咲き実に見事だ。山上の楽園という形容がぴったりのすばらしいところだった。ここが八瀬森湿原だった。ここを過ぎ、オオシラビソの森に入るとすぐに小屋が右手に姿を現した。いくら歩いてもその小屋の手掛かりを示す道標がないので不安になっていただけにさすがにほっとした。 小屋は新しい二階建て。整理整頓され、清潔だ。こんな山深いところの無人小屋がこんなにきれいに維持されていることに感激する。蒲団も毛布もあり、湿気を防ぐため手摺りや棒を横に通して掛けてある。トイレは二階にあり、いったんベランダに出る。きれいに管理されている。 とにかく全身びしょぬれの衣類を着替えることにする。人心地がついたところで、水場が近くにあると聞いていたので探しに出掛けた。あるとすれば湿原の方だろうと思い、湿原の方に行くと水音が聞こえてきた。耳を澄まして、その水音の方へ行くと、湿原の端に小さな流れがあった。ありがたい。幅３０㌢ほどの小川だ。早速にビールとトマトを冷やす。水を汲んで夕食の仕度にとりかかる。それにしてもいい小屋だ。備え付けのノートを見るとボランティアでこの小屋を維持しているグループがいることが分かる。頭が下がる。 夕食がすんだ。やっと森に夕暮れが訪れた。小屋を出てうす明かりのなかの森を眺める。いまは小鳥の声もない。静かだ。静かすぎる。ここではぼくは鳥や虫と同じ存在なのだ。そのことに気がつく。自然との一体感を実感する。それにしても、よくもこんな山深いところきたものだ。しみじみとした気持ちになる。なにか満ち足りたものがなんどもなんども押し寄せてきた。そんな気分が照れくさいのか森の空気を深く吸い込んだ。 ローソクの灯りを消して、シュラフにもぐりこんだ。不安と歓喜の長い一日だった。花に埋め尽くされた美しい湿原をなんどもなんども思い描いて、幸せの気分にしたりながら眠りについた。 コース＆タイム ７月１５日（土）晴れときどき夕方雷 松川温泉・松楓荘(泊) ７月１６日（日）くもりのち雨７：２５松川温泉・松楓荘ー９：２０大深山荘分岐ー１０：３０水場ー１０：５０大深山荘１１：５０ー１２：１５大深岳ー１２：３０関東森分岐ー１５：１５八瀬森山荘(泊） ７月１７日（月）くもり ４：００八瀬森山荘５：３０ー６：００関東森ー８：４５関東森分岐９：００ー９：１０大深岳ー９：４０水場９：５０ー１０：４０大深山荘分岐１０：５０ー１１：１０水場ー１１：５０丸森川ー１２：１０登山口＝１３：００藤七温泉・彩雲荘１４：００＝１５：００松尾八幡平IC、東北自動車道＝１７：０６仙台 BACK HOME NEXT
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