丹沢・唐沢川 天と地を揺り動かす悲鳴 なっ、なにが起きたんだ

勤務先の関係で仙台に単身赴任していたが、本社勤務になり４月から我孫子に戻った。 　仙台在勤中の３年間は東北の山を大いに歩き、遊びほうけた。サラリーマンとしては少々やりすぎたかなという自分の内なる声がある。それでもたかが知れている。 　東北の山の思い出にどっぷりしたっていると、歩きたくても歩けなかった山がしだいに気になってくる。仙台の友人に楽しみはあとにとっておくもんだよ、といわれた。その通りになった。これらの山々を訪ね歩くのがこれからの楽しみだ。 　そのひとつに白神山地の渓流がある。白神の尾根は歩いたが、渓流に興味を持つようになったのは根深誠さんの影響が大きい。彼の著書を読んでいるとたまらなく歩きたくなる。赤石川、追良瀬川、粕毛川などを遡行したいと思うようになっていた。根深さんの文章を抜き書きしてみよう。 　―毛バリを振り込んだ。一瞬、イワナが閃きでた。(中略)岸辺にイワナを引きずりあげた。暴れ狂って砂粒のついた魚体を私はあらわにつかんで、足もとから拾ったにぎりこぶし大の石で頭を２、３度たたいた。数尾のイワナをぶらさげて、テント場へ戻った。そして流れの淵で、イワナのはらわたを洗い流し、腹の内側にミソを塗りたくって、イタヤカエデの枝で串刺しにして焚火にあぶった。流れの淵ではイブニングライズがはじまった。淵に漂う暗闇の向こうから、その音だけがしきりに聞こえるー 　この情景に憧憬を感じ、このイメージがいつまでも頭から離れられないでいる。 　白神山地のブナの緑に染まった渓流をいちどでいいから歩いてみたい。その思いがますます強くなる。どうにかそれがこの夏に実現できそうだ。 　今回の唐沢川への入渓は、白神の沢への第一歩になればーそんな思いを抱いて参加した。 唐沢川の入渓地点まで車が入れなかったので、峠をひとつ越えた。さあこれから沢に入ろうと　小唐沢橋の上にみんなが集まった。 　きゃああああああああああああ……。 　突然に悲鳴があがった。すさまじい音響だ。ぼくの人生で初めて耳にするほどのものだった。それほどすごかった。 　その叫びは阿部さと子さんからあがった。 　「なにが起こったんだ」 　悲鳴はいつまでも続いた。終わりそうもないくらい、それは長く感じられた。丹沢の山また山にこだまし、谷という谷の隅々にまで鳴り響いた。 　圧倒された。度肝を抜かれた。あっけにとられて阿部さんを見つめた。なんでこんなにも長く大きな声をあげていられるのだろうと。空前絶後だった。これはやはり力だ。こんな力がどこからわいてくるのか。 　一瞬の出来事とはいえ多くの感慨をいだくものだ。　 　ようやく悲鳴がおさまった。 　われに帰った。 　この騒ぎはなんなんだ。 　全員が阿部さんに注目している。 　「ヒル。ヒルぅぅ」 　腕をみせて、そう叫んだ。 　それはヒル、だった。 　「とってぇ」 　よほど苦手だったのだろう。 　ぼくも大の苦手のネズミやヘビが腕に絡まっていたら、自分でも信じられないような大声をあげるのだろう。 　そうか。そうだったのか。 　そのとたん、またも阿部さと子さんから悲鳴があがった。これども最初に負けないくらい大きかった。こんどはなんとなく原因をあるていど予測できた。 　ーまたかなー 　それだけに冷静に眺めていられたようだ。 　やはりヒルだった。もう一匹いたのだ。 　これでヒル騒動が一段落したかと思った。そうはいかなかった。それはこの一日の序章でしかなかった。 　沢に入り遡る。休むたびに足や脛を見るとそこにヒルが張り付いていた。阿部さんはあいかわらずヒルに好かれていたが、慣れてきたのか叫び声も小さくなった。阿部さんに限らずだれもがヒルに吸い付かれている。ぼくには不思議にヒルが付かなかった。どこまでもヒルの騒ぎになった。ヒル飯のときもヒル談義になった。 　なにやら遠足的な気分になってきたので、ぼくは意識して皆さんとは距離をおいて先頭を歩くことにした。 　唐沢川は静かだった。新緑に覆われ、おだやかでのびやかな沢が広がっていた。木漏れ日が清流にはじけた。光がきらきらと輝いて四方に飛んだ。その中をジャバジャバと歩く。その瞬間、その瞬間に山の気にふれ、山の気に包まれていることを体感できた。単純なことだが、ぼくにはそれで十分だった。　 　釣り人がひとりいた。ぼくも釣り竿を入れたかった。そんな時間がないことはわかっていながらも、そう思わせるほど好ましい渓相だった。 沢を詰めて藪を抜けるとうまい具合に尾根道に出た。残間リーダーの好判断だ。コース取りがうまい。さすがになれているなあ、と感じた。 　大山頂上で濡れた衣類を着替えていると、ヒルが服の中にもぐりこんで、血が噴き出している人が少なからずいた。 　ぼくも左手に違和感があった。見ると小指の付け根にヒルがいた。やっとぼくにも来たのだ。地面に落とした。すっかり血を吸われていたようで、血がにじんでいる。こんなにも出るのか。血糊ができた。出るもんだな、と眺めた。 　小指から……か。 　ヒルは悪い血を吸ってくれるというから、“あの思い出”までもすっかり消してしまったのだろうか。 　水と戯れるつもりが、すっかりヒルに振り回される一日になった。